
|
・19世紀、コレラの治療から始まった輸液療法は、1960年頃、新たな局面を迎えようとしていた。 ・人工膠質液の開発と導入である。 ・デンプンをヒドロキシエチル化して作られたその液体は、血管内を満たし、失われた循環を取り戻す、まさに生命を支える新たな力となった。 ・だが、新たな希望の星が生まれると、そこに新たな争いが生まれる。 ・それは人の悲しいサガなのかもしれない。 ・ヒドロキシエチルデンプンの開発から半世紀 ・神にも挑むその技術をめぐる論争の炎は、ついに世界を包み込むことになる。 ・スターチウォーズ 新たなる戦いの幕開け。 ・ヒドロキシエチルスターチ、通称HESは、1960年代に導入されて以来、世界中の集中治療室(ICU)で使用されるようになった。 ・2010年までに欧州で60種類以上、米国で4種類の製品が登録されていた。 ・時代はまさにHESの全盛期であった。 ・しかし、開発から半世紀近くの時が流れ人類はHESに疑問を持つようになってきた。 ・1990年から2010年頃にかけて、HESの副作用についての報告が散見されるようになったのだ。 ・掻痒、急性腎障害(AKI)、凝固障害、出血傾向、アナフィラキシー様反応。 ・報告が増えるにつれて、偶然で片づけるのは難しくなり始めてきた。 ・2008年、ドイツで一つの発表がなされた。 研究者:重症敗血症患者において、HES(10% 200/0.5)は乳酸リンゲルより腎代替療法割合を増やしている。 ・これが、通称VISEP試験だ。 ※https://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMoa070716?utm_source=chatgpt.com ・とはいえ、HESの安全性を示す研究も数多く存在していた。 ・例えば、CRYSTMAS試験では、 研究者:敗血症患者を対象とした検証をしたけど、HESが生理食塩水より急性腎不全や死亡率を増えることなんてないね。むしろ血行動態が安定するのも早いみたいだ。 ・このように、HESの安全性と有効性を評価する声も多かった。その中でも代表と言える人物がいた。 ドイツ人麻酔科医 ヨアヒム・ボルト:HESが有害なんてことは有り得ない。私は数々の報告をしてきたが、どれもHESの安全性と有効性を示すものばかりだ。 ・当時、この考えは比較的支持されるものであった。しかし・・・・・・。 研究者:ボルト博士のこのデータ・・・・・なんかおかしくないか? 研究者:確かに…… ・2010年、史上最大級の科学的スキャンダルが世間を揺るがした。 ・ヨアヒム・ボルトによる不正行為である。データ捏造と倫理審査未了を理由に、2012年までに90本を超えるHES関連の科学論文が撤回された。その多くはHESを擁護するものであった。なお、彼の撤回論文数は、常に上位争いを繰り広げており、2023年時点で221本と、堂々の1位を誇っている。 ・これをきっかけに、HESに関連する論文の多くが見直されることとなった。当初HESと全死亡率に関連がないとされていたメタアナリシスが再評価された結果、死亡率と急性腎不全のリスク上昇という結論に変化するなど、その影響は甚大であった。一部研究も、精査を迫られ、 研究者:後続研究をして再検証した結果、HESの使用は、腎代替療法割合および90日死亡率の上昇と関連があるようだ。 ・CRYSTMAS試験など、大きな研究の結果が変わることもあった。 ・その後行われた6S試験では、 研究者:重症敗血症や敗血症性ショックの患者において、HESは酢酸リンゲルより腎代替療法割合と90日後の死亡率の増加を生じている。 ・そして、CHEST試験では、 研究者:重症患者の場合、生理食塩水と比べて、90日時点での死亡率に差はなかったが、腎代替療法割合は増えている。 ・それまで無害と信じられてきたHESへの評価が、一気にひっくり返った。 ・これを受けて、欧州医薬品庁(EMA)は一つの要請を受けた。 EMA:ドイツ医薬品庁からの依頼?HES製品の安全性について調査して、対処しろだって?まずはPRAC(医薬品安全性リスク評価委員会)に調査させよう。もし問題があるなら、加盟国医薬品調整委員会(CMDh)に報告して各国の調整をかけてから、欧州委員会(EC)に報告して、販売中止を決定してもらう必要があるね ・2013年、これが第一次スターチ・ウォーズの始まりである。 (2013年6月)PRAC:我々、医薬品安全性リスク評価委員会(PRAC)の調査によると、HESのリスクがベネフィットを上回るのは明らかである。 加盟国医薬品調整委員会(CMDh):私達、加盟国医薬品調整委員会(CMDh)もこの考えを支持する。すべてのHES製品の販売承認を一時停止するよう欧州委員会に勧告する。 欧州委員会(MC):わかりました。欧州委員会の名のもとに、勧告に従いHESの販売の中止を……。 (異議あり!) 規制反対派1:これらの試験は、患者のICU入室の数時間後に登録されている。すなわち、入室の時点で血行動態が安定している可能性があり、その後に輸液を投与するのは明らかに過量だ。これはHESの不適切使用であったのではないか! 規制反対派2:HESは腎不全で排出が遅れる。腎不全患者を研究に含んでいたのは不適切ではないか? 規制反対派3:6S試験やCHEST試験では、試験開始前にHESを使用していた症例も多い。これは比較試験として不適当ではないか? 規制反対派1:腎代替療法が増えたというが、判断基準が「担当医の判断」となっている。不明確な基準で開始しているのは不適切な研究ではないか。 規制反対派4:これらの試験は重症患者しか見ていない。それを全患者に適用するのはおかしくないか? (待った!) 規制賛成派:それは研究を恣意的に解釈している。 規制反対派1:それでは証拠をお見せしよう。 規制反対派1:このCRISTAL試験では膠質液群(アルブミン、HES、ゼラチン)が晶質群より90日死亡率が低くなっており、循環の安定も認められた。 規制賛成派:これは HES単独の安全性を示すものではない。 欧州委員会(EC):これは、すぐには判断できないな。 EMA:今度はHESの製造業者からの依頼? 販売業者:意見が分かれているので、EU法第31条に基づき、再審査を要求します。 EMA:第31条は「製造業者などの再審査要求権」を定める規定だ。法律に基づき、PRACに既存のデータの見直しをさせよう。しかし、まだ結論が出ていないのにイギリスが勝手に販売を中止にしているみたいだ。この状況だと、EU法107条iに基づいて、EU全体も同様の判断をするべきか審査する必要があるな。新たなチームを発足して、外科手術・外傷の出血性ショックに焦点をあてて再検討させよう。 旧チーム:すでに結論は出た。HESは敗血症や重症患者に使うと予後を悪化させる可能性がある。 新チーム:しかし、外科や外傷の領域のデータでは、短期的な血行動態の改善、体液節約効果、浮腫形成の予防と制限、推定失血量の有意な減少 、赤血球輸血の減少と、良いデータが多い。しかも腎不全や死亡率への影響も悪くなさそうだ。一律制限は早計ではないか? 欧州委員会(EC):わかりました。HESは、敗血症への使用は避けて、条件付きで使用可能とします。 ・2014年、欧州委員会(EC)は条件付きでHESの使用を許可することを決定した。 ① 敗血症・熱傷・重症患者では禁止 ② 外科・外傷の急性失血による循環血液量減少症の患者には使用可 ③ 晶質液で不十分な場合に限る ④ 上限を50 ml/kgから最大30 mL/kgに減らす ⑤ 腎機能90日間監視 ※ HES 200/0.5 と 130/0.4/0.42の間に安全性の差は設けていない ※ 日本の基準ではありません。 ・この結論は全会一致で同意を得られたものではなかった。 規制賛成派1:HESの効果は不確かだ。それならアルブミンを使えばよいではないか。 規制賛成派2:なぜ重症患者でダメなものが、外科なら良いと言えるのか。 ・こうして、第1次スターチウォーズは停戦した。 ・その結果、HESの使用は大きく減少し、代わりにアルブミンが多く使われるようになった。 ・しかし、くすぶった火種は消えることなく、やがて新たな戦火を広げることとなる。 ・火種となったのはアメリカである。 ・2017年2月、アメリカの非営利消費者保護団体 Public Citizen、一つの声明を出した。 Public Citizen:HESが危険なことは明白だ。直ちに米国市場から除去すべきだ。 ・当時、アメリカ食品医薬品局(FDA)は、欧州の動きに協調していたが、Public CitizenはHESの全撤廃を要求したのだ。 EMA:今度はアメリカのPublic Citizenからの声明?以前の決定について、再検証を求めるって?アメリカからの要請に従う必要はないけれど……。 スウェーデン医薬品庁:我々、スウェーデン医薬品庁は、2017年10月、ヨーロッパ諸国を対象として研究してきた。しかし、HESが未だに高リスク患者の最大34%に対して、継続的に使われているようだ。使用制限を守れないなら、使用停止をすべきではないでしょうか。 EMA:スウェーデンの方がそう判断するなら、またEU法107条iに基づいてPRACの調査をする必要があるね。 ・第2次スターチウォーズの開戦である。 PRAC1:失礼します。我々の調査だけではなく、EMAの方でも、専門家グループの検討をしていただけないでしょうか? EMA:わかりました。早速専門家を招集しましょう。 ・EMAは2017年12月に専門家グループによる臨時会議を開催した。 PRAC1:専門家の間で検討し、結論が出た。すべてのHES製品を欧州市場から撤去することを勧告する。 ・この結論は加盟国医薬品調整委員会(CMDh)に承認され、販売中止を最終決定する立場にある欧州委員会に最終判断が委ねられることとなった。 規制賛成派:当然の結論だろう。 規制賛成派:むしろ遅すぎたくらいですな。 (6S試験やCHEST試験の主導者を含む、英国、オーストラリア、デンマーク、ドイツの科学者グループは、この決定に諸手を挙げて賛成した) (待った!) 規制反対派1:HESを一時停止するという勧告は「科学的根拠がなく、患者に潜在的に危険である。 (CRISTAL試験の主導者を含む、ヨーロッパの科学者グループは猛反対した) 規制反対派2:私はEMAの会議に参加していたが、なぜ反対を表明した私のコメントが省略されているのか? 規制反対派3:そもそも、元々の検証はきちんとされているのか。6S試験とCHEST試験の元データを見せてほしい。 規制賛成派(6S試験):それはちょっと……。 規制賛成派(CHEST試験):解析したデータはきちんと公開している!元データを公開する必要はない! 規制反対派3:どういうことだ!それは! ・これを受けて、EMAの元に19のヨーロッパ麻酔学会のグループより、公開書簡が届けられた。 書簡:あなたたちは「不適切使用の調査をした」と言ったが、HESの使用に関するアンケートの選択肢には「循環血液量減少」という項目が無く、脱水または水分過剰しか選択できなかった。また、「敗血症患者に投与された場合」に、「敗血症の前に投与された」ものも含まれている。HESの販売中止は、血漿交換、小児心臓手術、脊髄麻酔下での帝王切開患者の低血圧予防など、特定の状況におけるコロイド製剤の臨床ニーズの不足につながる。そもそもHESが販売中止となれば、デキストラン、ゼラチン、アルブミンはHESより性能・コスト面で優れておらず、代替コロイド製剤など、存在しない。 ・一方、製造業者:そもそも、臨床医による製品の適応外使用は市場から撤退する十分な根拠にはならないはずだ。 欧州委員会(EC):各所から出ている批判はもっともだ。販売停止勧告の差し戻しを決定する。 ・欧州委員会は、販売停止勧告の差し戻しを決定し、すべては白紙に戻った。 PRAC1:しかし、HESの効果は6S試験やCHEST試験ほどの大規模試験に裏付けられたものではない。その効果も不明だ。やはりHESは制限すべきなのだ。もう一度かけあってほしい。 加盟国医薬品調整委員会(CMDh):前回はあなたたちに賛同したが、すでに欧州委員会の結論はなされた。制限できるだけの根拠がない以上、それを受け入れることはできない。 ・加盟国薬品調整委員会は、今度は販売規制の意見に同意しなかった。 ・こうして第二次スターチ・ウォーズは停戦となった。 ・しかし、PHOENIC、TETHYSなど、HESについての研究はまだまだ続いている。 ・The Starch Wars Never End(スターチウォーズは終わらない)。 |