ペ:こんにちは。ペンギン先生です。 コ:コシロです。 ペ:今回は「全身麻酔でボケる、というのは本当ですか?」の後半の講義をしていきます。 コ:前回の講義では、全身麻酔の後に認知機能の低下が認められる可能性が指摘されていて、若者でも5%程度に術後の認知機能の低下が生じる、というところで止まっていたんだったね? ペ:そう、ここから本当に若者での認知機能の低下があるのかを確かめるために、しっかりと論文を見ていくことにしよう。参照している論文はPredictors of Cognitive Dysfunction after Major Noncardiac Surgeryという、2008年にAnesthesiologyという雑誌に投稿されたものだね。この研究は、心臓以外の手術を受けた患者を対象としている。手術前、退院時、手術後3か月に神経心理学的検査を受けてもらい、そのスコアを比較した。研究のため、患者を若年者(18~39歳)、中年者(40~59歳)、高齢者(60歳以上)の3つのグループに分類している。 コ:年齢別に分けたっていうことが特徴だね。 ペ:若年層が331人、中年層が378人、高齢者層が355人の、合計1064人が試験に参加している。そして、退院時の時点で、1021人が検査を受けることができ、若年患者 117 人 (36.6%)、中年患者 112 人 (30.4%)、高齢患者 138 人 (41.4%)にスコアの低下が認められた。そして、926人(87%) が術後3か月の追跡調査を受けることができた。そして、若年患者 16 人 (5.7%)、中年患者 19 人 (5.6%)、高齢患者 39 人(12.7%) に認知機能の低下が認められている。 コ:若い人でも、退院する時には30%の人に認知機能障害が出ていて、3ヵ月たっても5%の人には残っている、というのは確かにすごいデータだよね。ところで、何で追跡調査の時に対象が減っているのかな? ペ:論文によると、以下の原因らしいね。 ※死亡 (26%)、病気(6%)、うつ(5%)、患者が拒否 (18%)、州外への転居 (15%)、患者と連絡が取れない (30%) コ:試験内容はどんな感じだったのかな? ペ:以下が挙げられている。今回は詳しく触れないが、脳トレのゲームとかに出てきそうな内容が多いね。この結果で、基準以上の低下が認められたら、術後認知機能障害ということになる。2項目以上でスコアの大幅な低下、または合計スコアの大幅な低下、という結構明らかな低下が認められない限りは術後認知機能障害とはみなされない感じだね。 ------ ・単語の学習(15個の単語を暗記) ・単語の想起(上記試験後、20分後に思い出せる単語の数) ・認知の柔軟性(ゲームをし、ルールを変更したときの適応力) ・注意散漫性(色と文字の内容が違う場合の正確な判断) ・ワーキングメモリ(指定されたルールに従って、記号を数字に変換する) ------ コ:結構難しそうだねえ。 ペ:さて、例えば理科実験をする場合には対照実験をしないといけないのは知っているかな? コ:対照実験って、ある実験をする時に「他の条件は一緒にして、調べたいことの条件だけを変えること」だよね。例えば、植物の成長について、ある薬の効果を見たければ、薬を溶かした水を与えるだけではなく、同じ量の、ただの水を与えた別の植物の成長を見ることで、成長度合いを比較しないといけないっていう感じかな。比較対象がいないと、薬が効いたかどうかはわからないもんね。 ペ:そう、今回の研究でも「術後3ヵ月で認知機能の低下が認められたからと言って、手術や全身麻酔の影響だったとは限らない」と言える。なので、対照実験も行っているようだ。今回は患者の家族などに依頼して、同様の試験を受けてもらったようだ。そして、対照実験をした結果は以下のようになる。 コ:この結果を見る限り、退院時点では、若者も高齢者も変わらず認知機能が低下しているのに対して、3か月後の時点では、若者と中年の方は少し高くなっているだけ、高齢者だと大き目に上がっている感じになるのかな? ペ:統計解析をかけた限りでは、3か月後の若者と中年は有意差なし、になっているね。 コ:有意差って? ペ:読んで字の通り「意味のある差」のことだよ。例えば、1年1組と1年2組の男子の身長を比べたとき、1組の平均が170㎝で、2組の平均が150cmだったとしよう。この場合、明らかに身長の差が不自然だよね。 コ:そうだね。例えば背が高い男子を1組に集めたとか、何か理由があるんだろうなって思うよね。 ペ:一方で、1組の平均が163cm、2組の平均が162cmだったらどうかな? コ:それくらいなら普通にあることだよね。 ペ:このように「偶然ではないだろう」と予想されるほどの差を「有意差あり」。「偶然じゃないか」と考えられるような差を「有意差なし」というんだ。 コ:つまり、若者と中年の認知機能の低下の割合が少し多いのは、偶然で説明できる範囲っていうことだね。 ペ:そう、なので、明らかに高くなっているのは、退院時のすべてのグループと、3か月後の高齢者、ということになる。 コ:つまり、3か月後の若者と中年の認知機能の低下については、明らかなほどではない、ということなんだね。 ペ:そう、少なくとも、認知機能の低下が目に見えるほどは増えない、ということだ。 コ:そういえば、別に全身麻酔を受けていなくても、何パーセントかの人は術後認知機能障害の基準を満たしているんだね。 ペ:うん、普通に生きているだけで、3か月後に認知機能が大きく低下するのは数%の確率で存在しているものらしい。 コ:スコアがどれだけ下がったかっていう話なら、1回目の試験の時の調子が良かった、とかもあるかもしれないね。1週間後に認知機能が低下しているのはなんでかな? ペ:まあ、それは全身麻酔以前に手術の影響で体力は消耗しているし、まだ痛みが残ってたりするし、そのための薬も使われている状況だから、ある程度は仕方ないんじゃないかな? コ:確かにねえ。あと、高齢者については、全身麻酔でボケる可能性がある、と考えていいのかな? ペ:これは最近注目されている問題の一つでもある。まず、術後認知機能障害について、いくつかデータを挙げてみよう。まず、麻酔薬が影響しているのかを確認するために、麻酔の深さが術後の認知機能に影響を与えてるのではないかと検証した論文がある。2006年にAnesthesia & Analgesiaに投稿された論文だ。この論文では、手術中にBISという脳波計で患者脳波を測定し麻酔深度を見ている。通常の麻酔深度の患者と、比較的麻酔深度が深めの患者の2群に分けて、手術の前と、術後4~6週間の認知機能を比較したところ、比較的麻酔が深い方が、術後の認知機能が良かったという結果になった。 ※論文リンク コ:つまり、麻酔薬を多く使う方が、脳への影響が良かったということ?直後のデータは無いの? ペ:予定では1週間後にデータを取るつもりが、嫌がる患者が多すぎてやめたらしい。 コ:まあ、手術を受けた直後でしんどいのに、そんな検査を受けたくないのもわかるね。 ペ:そして2013年にJournal of Neurosurgical Anesthesiologyに投稿された論文によると、BISを使って麻酔の深さを厳密にコントロールした方と、コントロールしなかった方では、コントロールしなかった方が麻酔の量が多くなり、3か月後の認知機能の低下が大きかったようだ。 ※論文リンクの表5を参照 コ:こっちは認知機能が悪くなったって結果なんだね。 ペ:ただ、術後の合併症の項目を見てみると、術後の感染が多すぎたり、その割に麻酔が深い群の方が退院が早かったりと、なんか釈然としないデータが多いんだよね。 コ:結局意見が分かれるっていうことなのかな? ペ:そう、他にもいくつかデータはあるけど、やはり意見が分かれるね。そして、例えば手術の後に認知機能が落ちたとしても、それは全身麻酔が悪いとは限らないんだ。 コ:というと? ペ:全身麻酔と脊髄くも膜下麻酔で術後の認知機能の変化を比較したデータがある。脊髄くも膜下麻酔は下半身だけの麻酔だから、この麻酔によって眠ることは無い。詳しく知りたい人は、脊髄くも膜下麻酔の説明の動画を見てください。 コ:宣伝だね。 ペ:さて、長期的な認知機能の低下が、全身麻酔が原因なら、脊髄くも膜下麻酔でやった方が認知機能が良くなるはずだ。2003年にActa Anaesthesiologica Scandinavicaに投稿された論文によると、60歳以上の患者で、全身麻酔を受けた患者と脊髄くも膜下麻酔を受けた患者を比較しても、特に長期的な認知機能については差が無いということだ。短期的な影響はぎりぎり有意差なし、といったところだね。 ※論文リンク コ:つまり、全身麻酔による長期的な認知機能への影響はないし、短期的にもはっきりしない、ということかな。 ペ:そういうことになる。短期の認知機能の低下は間違いなくあると言ってもいいだろう。しかし、仮に長期の認知機能の低下があったとしても、手術による体への負担や、入院によってしばらく体をあまり動かさないこと、刺激が少ないことなどが、認知機能への影響を与えている可能性だってある。先ほど挙げたように、術後の認知機能の低下を支持する研究は無いわけではないし、人によっては主張が変わるかもしれない。でも、少なくとも、全身麻酔自体が認知機能に長期的な影響を与えたという、十分な証拠は今のところ存在しない。 コ:痛みや薬の影響で短期的には影響があるけど、それも長くは続かない、という感じだね。しかも、それも全身麻酔のせいというよりは、手術や入院が原因の可能性もあると。 ペ:別の動画で、麻酔薬とお酒は似たような作用機序を持っていることを説明したと思うけど、何十回も泥酔したらすごく認知機能が落ちる、なんてことは経験的にまずないし、少なくとも私は長期の術後認知機能障害については懐疑的だ。でも、絶対ないとは言えないので、今後の研究には期待かな。 コ:それじゃあ、前回の動画に出てきた、「全身麻酔によって計算や論理的思考ができなくなった」というのは、どんな原因が考えられるのかな? ペ:まず、本当にクリニックがいい加減な管理をしていたなら「低酸素が原因」の可能性も否定はできない。また、データ的には微妙だけど「長期的な術後認知機能障害」の可能性も完全に否定できるわけではない。それでいうなら、実は全身麻酔を受けてから1週間程度の、まだ認知機能が戻っていない状態でXに投稿している可能性だってある。それも全身麻酔のせいか、手術自体のせいなのかはわからないけどね。また、全身麻酔を受けていない人でも認知機能の低下が見られているし、たまたま調子の悪いタイミングだったり、加齢による認知機能の低下を全身麻酔のせいにしている可能性もある。 コ:つまり、結局何もわからないということね。 ペ:情報が無いからね。クリニックの麻酔管理の実態もわからなければ、術後認知機能障害があるのかさえ分からない。いつ全身麻酔を受けたのかもわからなければ、そもそもその症状が短期的なものなのか長期的なものなのかさえ分からない。そんな状況で断言できるわけもない。 コ:それはそうだね。 ペ:それでは、今回の講義はここで終了とします。今回の講義は、客観的なデータを用いて、できる限り客観的な話をしておりますが、私も麻酔科医として第三者というわけではないので、バイアスなどが入っている可能性もあります。個人の体験談などもありましたら、また気軽にコメント欄で教えてください。全身麻酔を受けた人だけだと、それはそれで情報が偏るので「全身麻酔を受けたことは無いけど、ボケを感じる」などでも構いません。 コ:もし気が向いたら、よろしくお願いします。 |