ペ:こんにちは。ペンギン先生です。 コ:コシロです。 ペ:さて、今回は少し麻酔薬について話していこうかと思う。 コ:麻酔薬って、まあ名前から麻酔に使う薬なんだろうな、と想像はつくけれど、どんな薬かイメージしにくいね。 ペ:具体的な定義はとりあえず置いておくとして、全身麻酔とかで「なんとなく眠る薬」というイメージはあるんじゃないかな?そこで、安くて、簡単に作れて、意識を失わせる薬剤という、一見麻酔薬として非常に使いやすそうなものが存在している。なんだと思う? コ:お酒だね? ペ:そうだ、よくわかったね。 コ: タイトルに書いているからね。 ペ: そう、例えば世界で初めて全身麻酔に成功したのは、日本が誇る医聖の一人、華岡青洲だとされている。彼は中国の伝説の医師、華佗の麻沸散にヒントを得て、漢方薬を用いた麻酔を行っている。でも、意識を失わせるんなら、漢方薬よりアルコールの方が真っ先に思いつきそうなものだ。実際、ギリシャ神話で、アスクレピオスという神が、神の酒であるネクタルに忘却の河レテの水を1滴加えることで、ネペンテという全身麻酔薬を彷彿とさせる薬を作った、との伝承も残っているし、1世紀ころのギリシャの医師ペダニウス・ディオスコリデスは、「傷の処置をする時に、マンドラゴラをワインに浸して、マンドラゴラ酒にして飲ますと、深い眠りに落ちて3~4時間は痛みを感じない、時に幻覚を見る」という記録を残している。 コ: マンドラゴラって、伝説上の植物じゃないの? ペ: いや、普通に存在するナス科マンドラゴラ属の薬草だよ。引き抜くと根がちぎれて悲鳴のような大きな音がするし、人型に似た形のものがあること、触るだけで皮膚から吸収される強烈な神経毒があることから、伝承が生まれたってだけ。鎮痛作用や鎮静作用があって、麻酔薬を彷彿とさせるね。 コ: そうなんだ。 ペ: 神話にあるように、全身麻酔というのは神の領域であり、それだけ人々に望まれていたものでもあったわけだ。一方で、それを成しえる物質の、有力候補の一つとして、酒は当然のように注目されていた。それなのに、結果的に酒は全身麻酔に使われてきたという明確な歴史が無い。 コ: ディオスコリデスが作ったマンドラゴラ酒は全身麻酔ではないの? ペ: マンドラゴラ酒を使って行われたのが傷の処置程度だから、そこまで深い眠りが必要だったとも思えないし、深い眠りと言っても、軽い鎮静程度だろう。現に「時に幻覚を見る」とあることから、意識がある状態だったことがわかる。歴史的には華佗も麻沸散を用いる時に酒を飲ませていたというが、これも十分な記録が残っておらず、怪しいとされる。なので「全身麻酔」に酒を用いることができるのではないか、という感覚が生み出した伝説なんじゃないか、と考えられる。 コ: そこまで注目されていたのに、何でお酒は麻酔薬にならなかったのかな? ペ: 恐らく歴史に残らなかったレベルでも、酒による全身麻酔は数多くされてきたことだろう。しかし、結果的に酒が全身麻酔に使用された明確な歴史は無い。そこで、少し酒と全身麻酔について考察してみよう。まず、酒で酔っぱらう理由は、脳のGABA_A受容体が刺激されること、NMDA受容体の阻害などが知られている。 コ: GABAは何か聞いたことがあるね。そんな名前のチョコレートがあったかな。 ペ: そう、GABA_A受容体というのは、脳神経に存在して、GABA(ガンマアミノ酪酸)を受け取って反応する。GABA_A受容体は神経の興奮を鎮める作用があって、これにより鎮静作用が生じる。実は代表的な全身麻酔の薬であるプロポフォールやミダゾラム、よく眠剤として処方されるデパスやマイスリーなどは、このGABA_A受容体をターゲットにしている。 コ: つまり、お酒って、全身麻酔の薬と同じ原理を持っている、ということなのかな? ペ: そう、さらに、NMDA受容体の阻害作用は、ケタミンという麻酔薬の作用だ。つまり、お酒は2種類の全身麻酔の作用を併せ持った鎮静薬、ということになる。 コ: だったら、全身麻酔に使われててもよさそうだよねえ。 ペ: 作用だけ見たらそうなんだけど、いくつか問題があるんだ。まず、GABA受容体は神経の興奮を抑える作用があると説明したよね?でも、お酒を飲んだら興奮状態になる人のことを聞いたことないかな? コ: 確かに、お酒を飲むと狂暴になるイメージはあるよね?興奮を抑える作用があるはずなのに、なんでなんだろう? ペ: 1937年にアーサー・ゲーデルは、麻酔の段階について、以下の4段階で説明している。まずは、1期目は無痛期、意識があるけどぼんやりしている段階だね。なんとなく目の焦点が合わないような状態になる。次に興奮期、神経というのは、普段様々な抑制をしている。例えば、何かを思いついたとき、この発言をここでするのは適切か、などと周りに気を使ってから発言をすることが多い。脳の神経の、こういった抑制部分の機能が抑制されることで、逆に興奮状態になる時期、というわけだ。 ペ: そして3つめが外科期、完全にぐったりして、手術をするのに適切なタイミング、というわけだね。そして最後に麻痺期、呼吸などの生命維持に重要な段階まで抑制してしまうから、命につながる段階、というわけだ。 ペ: ちなみに、現代の麻酔では循環や呼吸などの命にかかわる部分は麻酔科医がコントロールするから、このゲーデルの分類は半ば死語のようになっている。ただ、無痛期から興奮期を経て意識を失う、という流れは、現代の麻酔においても重要な話だと言っていい。 コ: つまり、お酒で暴れるのは興奮期が原因、ということだね。確かに、お酒を飲むと最初はなんだかぼんやりしてくるのに、お酒の量が増えると興奮状態になって、飲みすぎるとぐったりするってイメージはあるよね。 ペ: そしてそれ以上になると命に係わるってことだね。お酒で全身麻酔をして手術をするには泥酔状態にしないといけないが、お酒が少ないと手術の刺激で興奮状態になるし、お酒を飲ませすぎると今度は命に係わるから、コントロールが極端に難しい。 コ: 確かに、切っても反応しないくらい泥酔しているけど、呼吸が止まらないっていう段階にコントロールするのって、難しそうだよね。 ペ: 現代医療だと呼吸管理をしながら手術するから、昏睡状態にすることもできなくはないけど、そういった技術が発達するのは19世紀の後半以降だし、その頃にはエーテルによる全身麻酔が確立しているからね。 コ: しかも意識を失うくらい飲んだら、吐きそうだよね。 ペ: それも問題の一つだ。命がかかっているとはいえ、意識を失うまでお酒を飲める人なんて、かなり限定的だ。普通はそこまで飲む前に吐いてしまいそうなものだ。無理矢理飲んだとしても、泥酔状態になってから吐いてしまうと、それが喉に詰まって致命的になる可能性もある。 ペ: また、現代の麻酔学の基本として、麻酔の三要素というのがある。すなわち、鎮静・鎮痛・筋弛緩の3つだ。 コ: つまり、寝かせて、痛みを取って、体を動かないようにするっていうことかな? ペ: そう、そもそも、麻酔という言葉の、麻は麻痺の麻、酔は昏酔の酔を意味する。昏睡は字が2種類あって、微妙に意味が違うから要注意だね。 ペ: さて、安全かつ快適に手術が行われるには、当然患者の意識は無くなっていないといけないし、痛みは取らないといけないし、体が動かないようにしないといけない。お酒には鎮静作用はあるけど、鎮痛作用は弱いし、筋弛緩や動きを抑制する作用はほぼ無い。 コ: つまりお酒で麻酔をするとなると要素が足りないわけだね。 ペ: 過去にはアヘンなどで痛みを抑える試みもされていたようなのだけれど、アヘンには呼吸を抑える作用や嘔吐を誘発する作用があるから、安全に手術をするのに酒との相性は最悪だ。運が良ければ成功するかもしれないが、命を救うための医療において、「運が良ければ」なんて何の意味もないね。 コ: なるほど。でも、それじゃあ、今ならお酒を麻酔薬として使用することはできるのかな?アルコールって、安く簡単につくれそうだし、もし海外から麻酔薬が購入できなくても、お酒を使って麻酔をすることができるなら、とても助かるじゃない。 ペ: 確かに現在の麻酔はバランス麻酔と呼ばれる方法が主流だ。さっき言ったような鎮静・鎮痛・筋弛緩を、それぞれ異なる薬剤を用いて達成している。なので、鎮静薬としてお酒を使って、鎮痛と筋弛緩に違う薬を使う、ということは理論上不可能ではないように思えるね。 コ: そうだよね。 ペ: ただ、これもやはり無理があるんだ。例えば、お酒で昏睡状態にするには、ビールで5リットルくらい、純アルコールで200gくらい血液中に投与しないといけない。そんな大量の純アルコールを短時間で血液中に入れる方法が無い。 ペ: 胃の中に注入すると胃が壊れるし、血液中に投与すると、血液が溶けるし、血管も大ダメージを受ける。仮に投与できても最悪肝障害を生じることになる。 ペ: さらに、手術室で麻酔科医が用いる薬剤は、覚めるのが非常に速い。プロポフォールの場合は、血中濃度が高い場合、2.5分程度で濃度が半分に減少する。それでさえ「比較的覚めが悪い薬剤」と言われているくらいだ。 ペ: アルコールは大体2~3時間で半減すると言われているが、これでは手術が終わっても何時間も人工呼吸器による管理をしないといけないことになる。さらに吐き気や頭痛、疲労感やめまいなど、副作用も強烈だ。まあ、使うメリットはまずないね。 コ: 結局ダメなんだね……最初の方の話からは期待できそうだったのにな。 ペ: 麻酔薬としては問題点が多すぎたね。逆にここから良い麻酔薬の条件も見えてくるね。お酒は鎮静作用を持つことから、かつては全身麻酔薬としての可能性が期待されていた。 ペ: しかし、最終的には実用化されることなく、優れた麻酔薬が次々と登場したため、今後も麻酔薬としての利用は考えにくい。お酒は麻酔薬になれなかった鎮静薬と言えるね。 ペ: ただ、お酒を飲むことによる体への影響などは、麻酔薬にも類似するところは多くて、医療になじみのない人にもイメージしやすいから、私は説明によく使ったりする。 コ: 無痛期とか興奮期とかの段階については、イメージしやすかったね。 ペ: さて、今日の講義はこれで終了とします。お酒を飲むときにでも、またこの講義を思い出していただけたら幸いです。 |